宝泉寺について
宝泉寺は正式には「臨済宗大徳寺派 永禄山 寳泉寺」といいます。
臨済宗は禅宗の一派であり、禅宗とは坐禅を修行することによって仏教の祖であるお釈迦さまと同じお悟りの体験を得ようとする宗派です。
本山は京都の大徳寺です。臨済宗の総本山というのは無いので、臨済宗のお寺はそれぞれの本山にしたがって臨済宗大徳寺派というように派をつけて称します。
宝泉寺は永禄元年(1558)に「北条時長公」によって創建されたので、「時長公」を寺の「開基」としています。又その時の元号から山号をとって「永禄山」といい、460年以上の歴史を誇ります。
「北条時長公」は小田原市久野に屋敷を構えていた「北条幻庵」の嫡子(長男)で、横浜・小机にあった北条氏の出城「小机城」の城主であり「三郎殿」と呼ばれていました。
「幻庵」は「北条早雲」の息子(三男)ですから、寳泉寺は「北条早雲」の(外)孫のために建てられた寺ということになります。
また創建時に第一世の住職(開山)として「大室宗碩和尚」を迎えました。大室和尚は湯本・早雲寺の第二世の住職ですから、早雲寺と寳泉寺は兄弟のような間柄で、大徳寺派のお寺の中でも一番近い親しい関係にあります。
豊臣秀吉が石垣山に一夜城を作り小田原北条氏を攻めた時、寳泉寺は焼き討ちにあって建物やほとんどの寺宝が焼失してしまいました。わずかに「幻庵」が裏書をした寳泉寺の「寺領図」と「北条氏政」の「虎の印判状」の二点が焼失を免れ、「開基・北条時長公の肖像画」を含めた3点が小田原市の重要文化財に指定されています。
その後、第三世の「菊径和尚」によって寳泉寺は再建されましたが、江戸時代は住職がいない時期もあり寺はかなり荒れていたこともあったようです。
江戸時代の終わり頃「仁渓和尚」によって現在の建物が再建され今日に至っています。
当時は寺の山や領地をたくさん持っていたので、建材は全て自分の山でまかなったと言われています。選び抜かれた材料でしっかりとした造りであったので関東大震災の難にも耐え、二百年近く経った今でも禅宗寺院らしい佇まいを残しています。
臨済宗は禅宗の一派であり、禅宗とは坐禅を修行することによって仏教の祖であるお釈迦さまと同じお悟りの体験を得ようとする宗派です。
本山は京都の大徳寺です。臨済宗の総本山というのは無いので、臨済宗のお寺はそれぞれの本山にしたがって臨済宗大徳寺派というように派をつけて称します。
宝泉寺は永禄元年(1558)に「北条時長公」によって創建されたので、「時長公」を寺の「開基」としています。又その時の元号から山号をとって「永禄山」といい、460年以上の歴史を誇ります。
「北条時長公」は小田原市久野に屋敷を構えていた「北条幻庵」の嫡子(長男)で、横浜・小机にあった北条氏の出城「小机城」の城主であり「三郎殿」と呼ばれていました。
「幻庵」は「北条早雲」の息子(三男)ですから、寳泉寺は「北条早雲」の(外)孫のために建てられた寺ということになります。
また創建時に第一世の住職(開山)として「大室宗碩和尚」を迎えました。大室和尚は湯本・早雲寺の第二世の住職ですから、早雲寺と寳泉寺は兄弟のような間柄で、大徳寺派のお寺の中でも一番近い親しい関係にあります。
豊臣秀吉が石垣山に一夜城を作り小田原北条氏を攻めた時、寳泉寺は焼き討ちにあって建物やほとんどの寺宝が焼失してしまいました。わずかに「幻庵」が裏書をした寳泉寺の「寺領図」と「北条氏政」の「虎の印判状」の二点が焼失を免れ、「開基・北条時長公の肖像画」を含めた3点が小田原市の重要文化財に指定されています。
その後、第三世の「菊径和尚」によって寳泉寺は再建されましたが、江戸時代は住職がいない時期もあり寺はかなり荒れていたこともあったようです。
江戸時代の終わり頃「仁渓和尚」によって現在の建物が再建され今日に至っています。
当時は寺の山や領地をたくさん持っていたので、建材は全て自分の山でまかなったと言われています。選び抜かれた材料でしっかりとした造りであったので関東大震災の難にも耐え、二百年近く経った今でも禅宗寺院らしい佇まいを残しています。
水之尾毘沙門尊天・水峯庵について
水峯庵毘沙門尊天の由来については関係書類焼失のため定かでありませんが、風祭・永禄山 寳泉寺に属し、天正年間(1580頃)の建立と伝えられています。
地元古老の伝えによれば、小田原北条氏の頃この地の石を伐りだそうと鑿を打ちこむと岩の間から血が流れ出したといいます。ある夜毘沙門天が北条早雲公の夢枕に立ち「我が身を傷つけるな。もし傷つけないならお前を守護してやろう。」と訴えました。早速工事を中止させ、後にその岩を本尊として毘沙門天を祀り、その守護によって北条氏は隆盛を極めたと言われています。この縁起により三つ鱗の紋が使われたと思われます。
後世、江戸時代には小田原城主・大久保加賀守の信仰も篤く、一族家来を引き連れて参拝したと伝わります。
毘沙門天は北方多聞天とも称し、北の方角を守護するとされ、この水峯庵も小田原城の北方に位置します。
毎年正月初寅の日の寅の刻にご祈祷が行われていましたたが、近年は年頭最初の日曜日(元旦は除く)の午前10時から行われています。
ご本尊は自然石で普段は前仏にお参りしますが、12年に一度寅年にご開帳が行われます。
※宝泉寺合祀納骨堂「風里廟」使用規則に従ってご利用いただきます。
地元古老の伝えによれば、小田原北条氏の頃この地の石を伐りだそうと鑿を打ちこむと岩の間から血が流れ出したといいます。ある夜毘沙門天が北条早雲公の夢枕に立ち「我が身を傷つけるな。もし傷つけないならお前を守護してやろう。」と訴えました。早速工事を中止させ、後にその岩を本尊として毘沙門天を祀り、その守護によって北条氏は隆盛を極めたと言われています。この縁起により三つ鱗の紋が使われたと思われます。
後世、江戸時代には小田原城主・大久保加賀守の信仰も篤く、一族家来を引き連れて参拝したと伝わります。
毘沙門天は北方多聞天とも称し、北の方角を守護するとされ、この水峯庵も小田原城の北方に位置します。
毎年正月初寅の日の寅の刻にご祈祷が行われていましたたが、近年は年頭最初の日曜日(元旦は除く)の午前10時から行われています。
ご本尊は自然石で普段は前仏にお参りしますが、12年に一度寅年にご開帳が行われます。
※宝泉寺合祀納骨堂「風里廟」使用規則に従ってご利用いただきます。